道徳イズム

東京生まれ東京育ちの大学生のひとりごと

超次元スポーツアニメを観終わって

以前書いたのだけど、春休みになってテニスの王子様のアニメを見返していて、今日ついに観終わった。観終わったあとの放心状態で今殴り書いている。

 

なんだかこの、アニメとか漫画が最終回を迎えたときの感覚って久しぶりだな。物語の終わりに向かって収束していって、それを最終回の数話手前、数巻手前から感じていて頭では分かっているのに、終わった瞬間気持ちがガっとあったまって思考停止してしまう感じ。

最初にこの感覚を持ったのは確か結界師を漫画で読んでて、最終巻を読み終わった時だった気がする。リアルタイムで買ってたからおそらく小学校6年生くらいだったと思うけど、いまだにアニメとか漫画の最終回のあとに結界師のことを思い出すくらい強烈な経験だった。

そのあともパッと思い出せる限り、漫画ではMAJOR、スラムダンクテニスの王子様NARUTO、マギ、鬼滅の刃、アニメではヒカルの碁るろうに剣心ガッシュ鋼の錬金術師とかたくさんの作品の終わりを経験してきたわけだけど、何度味わってもこのなんとも言えない高揚感というか胸の高鳴り的なサムシングは自分にとって麻薬みたいなもので慣れないなあ。

 

なんかアニメの最終回、漫画の最終巻を、終わってからもう一回リピートしちゃうことってないっすか??あれって、この感覚が中毒性を持っててもう一度同じ感覚を味わいたいって本能的に思うからだよねゼッタイ。

 

そんなこと言っても、いつも最終回で盛り上がっても周りに共感してもらえない自分なので、この感覚は自分だけのものなのかもしれない。それはそれでアリ。

 

ていうかどうしたらNetflixは最後まで映画を観させてくれるんですか。いつもエンドロールで別の映画の宣伝広告が入っちゃうんだけど設定とかでどうにかなるのか。調べてないだけなんだけど、毎回地に足つかない感じで終わっちゃうのが気になったり気にならなかったり。

今日にいたってはテニプリ1期最終話のあと涙ぐんで一人ニヤニヤしていたら、寸分の間もなく全国大会編が始まって飛行機が飛んでいた。余韻を楽しみたい!!!!!!!

 

アニメを毎週リアルタイムで観たり、漫画の3、4か月に一度の最新巻発売を待ち遠しく思ったりしていた頃ってすごい懐かしいな。アニメは録画してまとめて観たり、動画配信サービスで一気見したりができるし、漫画も最近は次巻がいつ出るとか全然覚えてなくて、気づいたら家にある(母が買っているとも言う)。

今の時代が、漫画やアニメに限らず作品が急速に消費されていく世の中なのもあるし、自分がそういう世界に適応していったのもあるけど、純粋に一週間後や3、4か月後の続きをワクワクしながら待っていたあの頃って、待ち時間を楽しむとかリアルタイムで周りの人と感動を共有するとかっていう、ある意味人間として当たり前なことができていたんだなあ。

 

HUNTER×HUNTERの最新巻はいつでもいつまでも楽しみに待ってるけどね!!!

旧アニメのG.I編最終回はマジでDVDが傷だらけになるほど再生した。そして新アニメの蟻編のDVDはなくしたから泣いた。

つまりネットで記事を読むのに「この記事は読み終わるのに5分かかります」と出てくるこの時代に、人間として当たり前の感覚を取り戻したかったらHUNTER×HUNTERを読め!!!!!!

超次元スポーツ漫画について

春休みになって時間ができたので久しぶりに「テニスの王子様」アニメを見返そうと思い実践中なのだけど、25話まで見てだんだんと超次元テニスになってきた。

 

もともと7、8年前くらいに漫画読んだときも、序盤はまだ納得のいく、というか現実性のある技がほとんどだったけど、途中から必殺技が決まりすぎててスポーツ漫画ってかファンタジー?バトルアクション?じゃんみたいな感想になっていったのを思い出す。

イナズマイレブンを小学生の頃は心酔して観てたけど途中から彼らがプレーしているのはサッカーではないことに気付いたときの気持ちとおんなじだ。

黒子のバスケを中学生高校生の頃に一生懸命録画して観てたけど途中からこれはバスケじゃないのでは?と思ったときの気持ちとおんなじだ。

 

テニプリイナイレ、黒バスとかはもともと超次元スポーツ漫画として有名だったと記憶しているし、テニプリについては登場する技が実際に再現できるのかを実証してるやつとかあっておもろかった。

けど超次元すぎないか。スポーツ詳しくないし得意でもないけど、自分だったらつばめ返しに憧れてテニス始めて全然できなくて落ち込みそう。笑

NARUTO観て忍者走りしてたしガッシュ観てバオウ・ザケルガって叫んでたし結界師観て結!とかやってたし、いまだに遊戯王デュエルリンクス毎日やってるし!!!!!!

 

とにかく何が言いたいかっていうと、不二君はかっこいいってこと。そういえば今日初めて不二君とHUNTER×HUNTER旧アニメのクラピカの声優さんが同じ人だって知った。二人ともキャラと声がぴったりすぎてこんなに違和感ないことはない。

ちなみに超次元スポーツに物申したいわけでも嫌いなわけでもありませんむしろ大好きです!!!!!!個人的に少年少女が超次元スポーツ漫画を観て何を感じているのかは興味があるというだけですから!!!

時間とまれ!1日36時間になれ!

本気で毎日こう思う。

というのも、書店に行くたびに「この読みたい本たち全てを生きてる間に読むことはできないんだな~」と感じるから。

 

BOOKOFFが好きで、よく行くところはそこまで大きいわけではないから本の量には限りがあるのだけど、そこで出会った本、惹かれた本には特別縁がある気がするんだよね。誰かが買い、読んで何かを感じて手放して、を何回かわからないけど繰り返してきたりして、今自分の目に留まっている本、それってなんかいいなと思う。

BOOKOFFだけじゃなく大きい書店にも行ったりするけど、気になる本がたくさんあってどれも買って持ち帰りたい気持ちになる。けどそうやって本棚にしまわれてる本がたくさんあるのも事実だから、ある程度取捨選択しないといけないのかな。

大きい書店に行けばその分読み切れない本を前に圧倒されて、この先の人生他に何をするでもなくずっと本を読んでやろうかと考えてしまうけど、そんなこともできないしやりたいこともたくさんあるからやっぱりバランスをとって生きていかなきゃならない。

 

『アバウト・タイム』を観たときに主人公の父親が、過去に戻って本を好きなだけ読んでいたと話していて、そんなことが現実にできたら…!と羨んだくらいだ。

実際問題やりたいことや勉強したいことが溢れすぎていて、そもそも勉強と読書と映画鑑賞と他の趣味と…のバランスをとることに精一杯でそれぞれの十分な時間も確保できていないし、これが大学生だからまだしも社会人になったらもっと時間が無くなるだろう。やりたいことがたくさんあっていいねと言ってくれる人が多いけど、やりたいことだけたくさんあってもそれらをまとめて舵取りができる技量もなければ、取捨選択して少数に絞ることもできないほど優柔不断で欲張りなのだ。

 

ここまで自分の限界を悲観しても仕方ないし、あれもこれもと手を出しすぎて全部が中途半端になるのも仕方ないから、結局は自分で受け入れて選択しなきゃいけない。

それをしなくて済む方法が、時間が止まるか1日が36時間あるいはそれ以上になるかということ。実際には1日の時間が伸びたらそれだけ読みたい本も増えると思うし人間そんなものだろうけど!!!笑

ということでニノマエになるかドラえもんを召喚するか時をかけるか誰か何とかしてください。

自分ってわがままだ〜

今訳あって森の中に住んでいて、春先まで住むつもりなのだが、こんな自然の中にいると感じることがある。

 

以前見たアラスカに暮らしている人々の生活に密着するドキュメンタリーには、年代やバックグラウンドが様々な人が出ていた。親の世代からアラスカの極地に暮らしてきた家族や、単身で移住してきた若者が、狩りや漁をしながら生活を営んでいる。

その中ですごく引っかかる部分があった。

これこそが究極の幸せだという若者の言葉だ。それは、「都会は狭くて汚くてそんなところに住んでいる人は不幸でかわいそう、それに比べて自然の中で自給自足で生きている自分は幸せだ」といったニュアンスの言葉だった。

この言葉を聞いたときに、幸せの価値基準を何に置くかは人それぞれのことなのに、どうして自分の価値観だけでさもそれが真実かのように語るのだろうと思った。今アラスカほどではないが森の中にいて、自然や動物に囲まれた環境にいると、その若者のように「幸せマウント」をとる人に稀に出会う。

その人も、東京は空気が薄汚れていて汚いなどとよく言い、それに対して自然の中で暮らしている自分に酔っているのか、自然自慢をしている。自然は誰のものでもないのに。

 

狩りや漁をしながら自然の中に暮らすことは、確かに人間のあるべき姿なのかもしれない。それでも多くの人が自分で選択をして住む場所、生き方を選んでいるわけで、それは他人が勝手に幸せだ不幸だと判断できるものではないだろう。

こうして考えていると、そうやって幸せマウントをとる人も嫌だし、幸せマウントをとる人に対して斜めに見て意見する自分も嫌だとなってくる。何かにつけて一側面しか知らないのに全てを知った気になって声を荒げて主張する人、その人を批判的に横目に見ている人、どちらにもなりたくないしいっそのこと関わり合いになりたくない。

 

そのどっちにもならず、自分の幸せは自分で決めて、迷惑をかけたり人の領域を侵したりしない限りは自分のやりたいことを好きに自由にやり、人に何を言われようとうちはうち、よそはよそと俯瞰できる人間でありたいなあ。

そんな自分ってすごくわがままだなあ。

疑問を消化できない思考力

なんでだろう?と思うことが増えたのは自分にとって良い事実。

ただそれに理由付けをしたり納得いくところまで理解を落とし込んだりできるほど思考してないのも事実。

 

なんでだろう?→自分で考える→ネットで情報収集、人に聞く、本で調べる→自分で考えて結論付け

このプロセスのどこに不備があるのかといえば、恐らくは自分で考えるの部分。

自分の中である程度整理してから情報のインプットに入ってないから、スマホ一つですぐに流入してくるネットからの情報や人の思いつき程度の提案を鵜呑みにしがちなのかなあ。気になったことや疑問に思ったことをすぐに調べるのも大事だけど、まずワンクッション挟んで力不足でも思考する時間をとった方がいいんだろうな。

 

これはスマホ一つで大抵の事は調べがつくような時代になってしまったが故の退化でもあると言い訳しつつ、自分の頭の足らなさを認めざるを得ない。

そんなことを考えてたらお昼休みが終わってしまって悲しい。

抱負を真面目に考える

先日無事ハタチを終えてしまったのだが、周りの友達がハタチを終えた時には「21歳の抱負を教えてください!」とか言っていたのにいざ自分の番になると抱負という抱負が思いつかなかったので、今から真面目に考える。

 

と言ってもどうしたら良いかと迷いつつ、とりあえず抱負の意味を調べました。goo国語辞書によると、「心の中にいだいている決意や志望。」ということでした。

(自分が思ってた感じで間違いないことは確認できたので一歩前進したことにしよう!)

 

漠然と抱負を考えても自分の成長したい方向性とベクトルの向きが合わなかったり一貫性がなかったりしそうなので、ハタチの総括(ほぼ前回の2020年の総括)からヒントを探すことに。

まず思ったのは、本や映画、メディアコンテンツから学ぶ時間を意識的にとって思考を深くすることはできたハタチ、21歳の一年間はもっとこれを強化してより思考を深めたいということ。去年は時間に余裕があったこともあり、本も他コンテンツも多くのジャンルに手を出しすぎた印象。その結果広く浅くなってしまった気がするので、今年は去年ざっくり知ったことからジャンルを絞って深めていくのがいいかなあ。2つ、3つくらいに絞って入門書から中、上級レベルまで新書を読んでみるとか。

あとは、何事も継続していきたい。去年は本当に、時間があるから手を出しすぎて逆に忙しくなるとかいう生きるのが下手な人がやりそうなことばっかりやっていたので、ひとつひとつを丁寧に続けていくことはあんまりできなかった。このブログも読書も自分の学びもやりたいことも、バランスとりつつ継続していこう。特にブログ…笑

あとは、自分からどんどん興味あることに首を突っ込むこと。これはハタチの抱負でもあって、去年はバイト3年目として巡ってきたチャンスを逃さず自主的に新しい仕事に挑戦したり、一時の思い付きから偶然築けた人間関係を大事なものとして捉えて新しい強い絆を結んだり、他人に自己開示することで得た言葉や情報から新しい場所、人間関係に繋がるきっかけを得たり、自分が意図的に人と関わり首を突っ込んだことで生み出した経験が大きな影響を与えてくれた一年だった。今年はもっともっとアンテナを高く張って、知らない人、知らない場所の中で不安があってもとにかく自分から発信してみる。

 

真面目に考えてみるとちゃんと言語化できるんだなあと発見。まとめると、

・学びのジャンルを2つ、3つに絞り、本やら映画やらを通して多角的にそれを深める

・手を出しすぎずひとつひとつをバランス良く継続することでそれぞれに厚みを持たせる

・自分から発信して新しい場所に足を踏み入れる

ってところかな。なんとなく思ってるだけの状態と違って、これだけ言語化すると具体的な指針が見えてきてモチベーションにもなるし、ベクトルの向きをしっかり設定できたことで後から見返して軌道修正したりもできそう。

この3つを意識して成長していきたいなあと改めて思った、頑張ろう21歳。そしていつも思うけど、ずっと未熟で教えられる側でいたいし大人になりたくない、けど成長したい!笑

 

あと1年後22歳になる自分に向けて先に言っておいた方がいいこと。

抱負は真面目に考えろバカヤロー!

2020年の振り返り

2020年を振り返るのにどういうタイトルにしようかと悩んだ末、ありきたりなタイトルになりました。今更2020年の振り返りを書こうと思います。

 

やっぱり以前半年の振り返りで書いたように、人格が変わったことは大きかったなあ。

友人の些細な一言で物事の見方が180度変わり、一生懸命やってるアルバイトで成果が出ない時、どうしたら自分にコントロールできない事象までを前向きに捉え、成果に繋げることができるかを考えられるようになったこと、人を動かすために、自分をいかに語るかよりも相手をいかに知るかを追及したこと。

そして、思うように動けなかった時間の中で趣味を広げ、新しく本や映画を通して学びを得たこと。

 

それらを実行できた力の根源はやはり自分が変わったことであり、それらによってまた自分も変わっていった一年だった。

 

以前より自分に対しても人に対しても多くを望まなくなったけど、これは諦めじゃなく理解だと思うな。

自分が完璧な人間でないことを理解したことで、なぜうまくいかないのかと落ち込むよりもどうしたらうまくいくかを考えるようになったり、人とは分かり合えないものだと理解したことで、わかってもらえないとイライラするよりもどうしたら伝わるかを考えるようになったり。

あー無理なんだ、と諦めたのではなく、理解したことで前に進めた気がする、大袈裟かな?笑

 

「なんでだろう?」と思うことも増えたな。人と関わって、物事を見て、なんでだろう?と思ったことを素直に考え議論し自分にとっての結論を出してみる。それをメモしておいて、あっためておいて、違うタイミングで見るとまた新しい考えが生まれる。

そうやって思考を深めていった時間もこういう一年でなければとれなかっただろうから、いろいろな人の立場があってこれを言うのは難しいけども、次々に起こる出来事に対して前向きに捉えて進めた時間ではあったんだなあ。

 

こんな時だからこそ、できなかったことよりもできたことに目を向けてほしいし、自分もそうでありたい。

振り返りはそんなところかな。言語化したことでさらに深まったし、一年を思い返しながら書いたことで気づきもあった。

2021年は、もっと本を読んだり映画を見たりする(ノルマ的にしたくないけど別の意味で数値目標を決める)、語彙力を鍛える、自分の好きなところを増やす、アウトプットをしまくる。